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おぶせ松北劇場
松竹、大映、東宝、東映、日活の五社、後に新東宝を加えて六社の製作会社から作り出された映画が、それら全国七千数百の大小映画館に系列のルートを通してかけられ、人々を楽しませる時代がきたのに、戦後小布施の町には映画館がなかった。これを残念に思う有志の人々はその設立に奔走した。百人余の株主を募り、市村公平氏を社長に据えて、松北劇場株式会社を設立したのが昭和二十四年だった。この建設は当時、湯田中の箱山に戦時疎開していた軍需工場の倉庫を解体、移築改造して五百人収容の映画館を作ったものだった。当初映画館とは名ばかりで、階下は木造四人掛けの長椅子、階上は畳敷き段差の桟敷席、それに何よりも、施設ができたから早速映画をかけられるというわけにはいかないのが、日本の特殊な映画市場。五社の映画は末端の五番六番館までそれぞれ興行主や館主を自社の系列下において配給されるという閉鎖的な市場である。好きな映画を自由に買って上映できるという世界ではなかった。
そこでかなり長い間、町の文化活動の催しに使ったり、小布施町出身で松竹を退職し、
長野にいた鈴木周一郎氏などの仲介でたまに映画をもってきたり、或いは長野映研から移動映画を借りてかけたり、といった程度の出発となった。その後長野映研に勤めていた町内林の内の宮沢四郎氏に独立して常設館をやりたいという希望があって、彼が松北劇場を借り受けた。宮沢氏は手持ちのコネやルートでフィルムを都合し上映回数を次第に増やしていく。その後、上山田に新設された館を伝親しかった東映のセールスK氏と語らって東映専門館にし、自ら館主となって常設館経営に当った。さらには山の内キネマの佐藤氏と組んで松竹大映のフィルム上映も確保する。
当時、人ロー万足らずの田舎の小屋で、映画を毎日かけて採算の合う興行をすることは難事であった。それは都市のように一つの番組で一週間の興行は続かないため、フィルムの本数を都市の館の三倍以上も必要とするからだ。封切りから半年遅れで一本あたりの写真代は安くても、本数は三倍も要る理屈で、このため地方の小屋は近隣の小屋同士で写真の貸しあい、つまりかけもち上映をやることで切り抜ける。
このためフィルムの本数は、やはり最盛期三十二年からの三年間でみると、年間実に二百五十本上映している。こうして、映画館を作ろうという、町の有志たちの奔走と出費、加えて映画の上映に心を注いだ宮沢氏の努力、さらには近隣の館主たちの協力、これらによって小布施の映画館松北劇場もようやく、日曜祭日以外平目は夜だけながらなんとか、毎日上映の常設館へと成長したのであった。因みに昭和三十一年八月から昭和三十八年三月までに上映した映画の総数は、千七百十一本に達した。
小布施町での映画館全盛時代というとやはり、裕次郎が登場した日活の全盛時代が重なって思い出される。そして、北信濃の風土を何よりも愛し、再三、自らの映画のロケ地として使った木下恵介監督の映画が忘れがたい。日活は志賀高原を、裕次郎や浅丘ルリ子の映画によく使った。裕次郎、北原三枝、長門浩之、南田洋子らで撮った「白銀城の対決」は、全編スキーシーズンの志賀や夜間瀬の小学校などを使った。当然エキストラも必要になる。地元の館主がその動員を頼まれる。雪と氷の蓮池の湖面に、ロープウエー完成の祝賀会場場面を作るから、そこに出演してもらう村会議員役を10人ばかり用意してもらいたい、といった具合。そこで駅前通りのおっさんたちにお願いして雪のロケ現場へ。演技は要らない、南田洋子や北原三枝のお酌でビールを飲んで、俳優と一緒のスナップ写真をふんだんに撮って終わりだから、おっさんたちにはよろこばれた。この方々も今はすべてあの世である。
なんといっても松北劇場開館以来、番組二千人突破という最高の入りを記録した木下恵介監督「野菊のごとき君なりき」は忘れがたい。館にとってだけではなく、小布施にとっても思い出深い映画となった。今はテレビ時代でロケ撮影も珍しくない。しかし当時、一流の監督が俳優をひきつれてきて地元でロケをすることは話題になった。しかも場所は、千曲川にかかる山王島の板橋、流れをゆく船の船頭には部落の漁師さんが使われる。村山の旧家が主人公の生家に使われる。等々で映画をめぐる話題には事欠かず、それらすべてが映画館にとっては、いずれかかる映画の絶好の前宣伝になったわけだ。これではお客が入らないわけがない。 案の定押すな押すなの入りとなった。ことほど左様に地元ロケは地元映画館にとっては有難かった。地元ロケで思い出す映画はこの他に、やはり木下監督の「喜びも悲しみも幾年月」「風花」、日恬淡丘ルリ子の「ラブレター、」などがある。信州は東京から近いという地の利もあり、景色にも恵まれていて映画のロケ地には便利だったのだろう。
「無国籍映画」などと一部から擲撞されながらも、従来の映画に無かった新しい若者路線の映画を生み出した日活の登場は鮮烈だった。ようやく映画が町の娯楽文化として定着したこの頃になると、松北劇場もやっとボックス席になり、スクリーンもシネマスコープ用の固定式シルバースクリーンとなり、映写機もワイドレンズになっていた。あいかわらず便所の匂いはかすかに客席へただよってはきたが、結構お客さんはよく来てくれた。

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